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義経とヨーロッパの接点

こんにちは。今回の当会報誌への投稿も、6月の「不思議の会」の内容に触発されて筆を進めて行きたいと思います。

横田先生がお話の中で、とある方から源義経の過去生があり、チンギス・ハンにはならずにそのままヨーロッパ、イタリアへ行ったと言われたとのこと。そしてこれは“麻布の茶坊主さん”ことHさんから言われたこととも一致していて納得されたとのことでした。

実はわたしも一昨年ある事柄でHさんに相談させて頂いたことがあるのですが、そのときに言われたのが、記憶に間違いがなければ、過去生でモンゴルとイタリアに居たというものでした。前回の寄稿文で少し触れましたが、今年の3月半ばに偶然受けたヘミシンクで、瞑想中に女真族の女性だった過去生があることを映像で視ました。女真族とは満州人で、清王朝を建国した民族です。その居住地はモンゴルと接し、交易を行なったり婚姻関係を結ぶなど関係が深かったようです。

以上がお話を伺って“不思議だなぁ”と思った点なのですが、本題はここからです。先に白状しますが、以下の内容は寄せ集めの断片知識ですから、軽く流してくださって結構です。

現在活躍中の作家に落合莞爾という方がいます。この方が展開されている歴史観が、「ウバイド・ワンワールド史観」というものです。

“ウバイド”民族とは、今のイラク辺りに起こった文明・メソポタミアのテル・アル・ウバイド(ウバイドの丘)から発祥したもので、砂金の採取・蓄積を行いながら各地を文明化していったそうです。東へ向かった2つの勢力の一つが北朝鮮の羅津(らじん)に行き着きます。これが陸路組。もう一つの勢力が九州・福岡を経て和歌山の熊野から入って大和の中心部にやってきた海路組で、現皇室の祖です。なお、ハプスブルク家初代皇帝フリードリヒ3世の実父が皇室に繋がるそうです。

ちなみにウバイド人とその末裔は旧人類とされ、ヴィルム氷河期の前のままの形で生き残った人類のことを指し、この氷河期で自らの遺伝子を変えて別の形になった人間を新人類と呼んで区別しているようです。ですから簡単に言うとウバイド人は縄文系だそうです。

16世紀にハプスブルク家が神聖ローマ皇帝位を独占し、最盛期を迎えます。もちろんこの頃の同家の広大な版図にはイタリアが含まれます。

さてこれで少し義経の“ヨーロッパ、イタリア”との接点が出てきました。

でも肝心な義経は?ネットで調べられる家系等を調べてみると、清和天皇の孫である(源)経基の養子に入ったのが源満仲。彼はわが家の近くにある多田鉱山の財力をもって養子に入り、清和天皇の末裔を称しうる立場となったが、元の名は多田満仲で本来は大伴氏。端折って言えば、これはモンゴルの騎馬民族系です。この満仲から三代下って義家がいますが、彼は八幡太郎義家と称します。八幡すなわち八流の旗とは満州トルコ族の象徴。この義家のさらに三代下る嫡流に義朝がいます。鎌倉幕府将軍の頼朝とその弟の義経の父です。義経の打倒平家の戦で有名な鵯越(ひよどりごえ)は、急峻な崖を騎馬で駆け下りていますが、やはり騎馬はお手の物だったのですね。

ウバイドの黄金、多田鉱山、そして義経を最終的に匿っていた奥州藤原氏の黄金。日本史の謎、サンカともつながる話です。

以上を踏まえて、義経の逃避行を考えてみると、彼は北海道を経由し、樺太から大陸へ渡り、モンゴルを通って欧州に入った理由が見えてきます。満州トルコ族系だったので支援があったのでしょう。この頃はまだハプスブルク家は台頭していませんが、欧州ウバイドと皇室ウバイドとは連綿とつながりがあったようです。ちなみに義経は頼朝の子ではなく、後白河天皇の子で、弁慶は義経の叔父という説もあるらしいです。

ここでまったくの余談ですが、前回の投稿でも少し触れた日蓮。その六大弟子(六老僧)の一人に日持というのがいますが、彼も北海道から樺太、そして中央アジア、ヨーロッパへと向かったという噂があります。落合莞爾がその名をあやかったという大日本帝国陸軍参謀石原莞爾。彼は熱狂的な日蓮信者でした。

最後になりましたが、『化城の昭和史(上)』(寺内大吉著)の124ページ目にこう記載されています。

石原が信ずるところでは、人類は恐らく中央アジア地方と想定される「高天原」で一家として生まれ、数次にわたり数方向に移動発展して、今日に見る如き二十億の世界人口と多数の民族となったという。この人類が時代の進歩によって世界統一がなされ、再び太古草創の昔に還って一家となるのである。

天皇家は全人類の総本家であり、天皇は地上唯一人の天成の君主である。ただし天皇は世界唯一人の君主ではあってもこれに臣従する日本民族が旗本のような特権を持っているわけではない。

以上、長々と失礼しました。

 

(Kさん・男性)

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